大阪高等裁判所 昭和59年(ネ)1178号 判決 1986年7月16日
控訴人
甲野太郎
右訴訟代理人弁護士
中坊公平
同島田和俊
被控訴人
乙山春子
右訴訟代理人弁護士
野村裕
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
一 申立
1 控訴人
(一) 原判決中、控訴人敗訴部分を取り消す。
(二) 被控訴人の請求を棄却する。
(三) 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
2 被控訴人
主文同旨
二 主張
当事者双方の主張は、左記のほか、原判決の事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
1 控訴人
(一) 本件手術によつても、例外的に再妊娠することがあり得るのは産婦人科医の常識であり、本件手術を行う場合には、事前に、手術による避妊効果は完全ではないことを患者に説明し、納得を得るのが通例であつて、戦前からの開業医である控訴人もこのことは知悉していた。したがつて、控訴人に限つて、あるいは本件の被控訴人に対する場合に限つて、この説明を怠つたとは考えられない。しかも、被控訴人の場合、経済的な理由から分娩して間がない時期に本件手術を実施することを希望したのであるが、かかる時期に本件手術を行うことは再妊娠率を高めるものであり(このことも医師にとつては基本的知見に属することである。)、本件手術が避妊方法として完全ではないことは、控訴人の説明上当然触れざるを得ないことであつて、これを説明しないことはあり得ない。
また、控訴人の妻も本件手術による避妊の効果が完全てないことは熟知していたから、同人が、本件手術により妊娠の可能性がなくなるなどと虚偽の説明をすることもあり得ない。
(二)(1) 被控訴人は、本件手術が避妊方法として一〇〇パーセント確実であるかどうかについて、四回程妊婦検診の都度控訴人に尋ね、控訴人はその都度これを肯定したと供述するが(もつとも、他方では控訴人から明確な説明がなかつたとも供述しており、それ自体、「控訴人及びその妻から『一〇〇パーセント間違いない。』との説明を信じて手術を受けた。」との被控訴人の言い分と根本的に矛盾している。)、前記のとおり、本件手術が避妊方法として完全なものではないことは医学上の常識であり、古くからの開業医である控訴人が四度までも虚偽の説明をする、ないし説明をしないなどとは到底あり得ない。
(2) また、被控訴人の供述は、本件手術実施日について誤つているほか、手術実施の決定時期についても、一方で、「分娩の前に簡単に決まつた。」としながら、他方では、「分娩後になつてやつと手術することが決まつた。」と述べて矛盾しているし、また再妊娠を知るに至つた経緯(甲賀病院で受診した目的)についても、夫の証言と食い違い、甲賀病院医師の記憶にも反しているなど、本件の核心部分について虚偽、矛盾があり、その供述は到底信用できない。
(3) のみならず、被控訴人は甲賀病院医師から再妊娠を告げられたのに、控訴人から再妊娠の可能性について説明を受けなかつたことを積極的に反論していないうえ、控訴人方に妊娠の事実を告げたのはその後二か月近くも経過した時であり、その際の被控訴人の態度にも憤慨している様子は全くないこと、当初の控訴人への損害賠償請求の書面では、控訴人の説明不実施には触れておらず、その請求時期も再妊娠が判明してから約一年六か月後であることからすると、控訴人が被控訴人に対し、本件手術による再妊娠の可能性について説明していないとするのはいかにも不合理である。
(4) 以上、本件の重要部分についての被控訴人の供述の虚偽、矛盾、不合理性を考えると、本件手術に際し、再妊娠の可能性について控訴人から説明がなかつたとの被控訴人の供述が信用できないことは明らかである。
これに対し、控訴人及びその妻の供述は首尾一貫しており、控訴人及びその妻の供述を排斥し、被控訴人の供述を信用した原判決の認定は誤つている。
(三) 原判決は、再妊娠後の被控訴人の夫と控訴人との面接の際や、被控訴人側から控訴人に対する損害賠償請求書、通知書には、控訴人から妊娠の可能性を説明されなかつた旨の発言、記載がないのにもかかわらず、控訴人からの返書には妊娠の可能性があることは説明してある旨の記載があることから、被控訴人が、再妊娠後控訴人に対し、控訴人が妊娠の可能性につき説明しなかつたことに関し、何らかの発言をしたと「推認」し、被控訴人からのかかる発言はないとの控訴人の供述と矛盾するとして、控訴人の供述の信用性を否定しているが、被控訴人の夫の証言からは、同人が再妊娠の可能性について説明されなかつたと発言しなかつたとは明確にはいえないし、また右返書は、控訴人代理人が控訴人から事情を聴取したうえ作成した原稿に基づいて、法的な立場からの反論を回答したものであり、被控訴人側から再妊娠したことを手術のミスと非難された以上、医師として再妊娠のことは説明したと応答するのは自然の反応であつて、返書の記載は何ら異とするに足りない。原判決の「推認」は誤りであり、これをもとに控訴人の供述の信用性を否定した原判決の証拠評価は誤つている。
(四) 仮に以上の控訴人の主張が認められないとしても、本件では控訴人側の供述と被控訴人側の供述が相反しており、少なくとも、控訴人が被控訴人に対し、本件手術による再妊娠の可能性について説明したか否かは存否不明であるとみるのが相当であるところ、本件は診療契約の不履行に基づく損害賠償請求訴訟であり、説明不実施は損害賠償請求権の発生原因事実として被控訴人がその立証責任を負担すると解すべきであるから、この点からも被控訴人の請求は棄却されるべきである。
2 被控訴人
控訴人の前記各主張は争う。被控訴人が控訴人から本件手術により再妊娠の可能性がないと説明され、そう信じていたとの控訴人の供述が信用できるものであり、右説明をしたとの控訴人及びその妻の供述が信用できないことは、被控訴人は本件手術当時は控訴人を信頼していたにもかかわらず、結果的にはつわりの症状であつたのに控訴人医院ではなく甲賀病院へ診療に行つたこと、控訴人は本件手術までに被控訴人の夫と顔を合わせていたが、本件手術を行うについて同人と話をしていないこと、控訴人の妻の証言は、手術直前の意向打診、控訴人が再妊娠の可能性の医学的説明をしたことに触れていないなど、控訴人の供述と異なつていること、控訴人の供述によつても説明を尽くしたうえで手術に及んだかについては中途半端であること、本件では手術に必要な患者側の「同意書」を欠いていることなどから明らかである。それゆえ、被控訴人は、控訴人からの再妊娠の際の分娩費用を無償とし、本件手術費用も返還するとの申し出を拒絶し、本訴提起に及んだのである。
控訴人は、本件のような手術による再妊娠事例がないために必要な説明を怠つたのであり、被控訴人は、手術の不安を否定した控訴人の応答態度及びその妻の激励があつたからこそ、本件手術を受けることに踏み切つたのである。
三 証拠<省略>
理由
一請求原因1、2の事実(医療契約の締結及び本件手術の実施)は、本件手術実施日を除いて当事者間に争いがない。そして、本件手術実施日については、被控訴人本人は原審及び当審において昭和五二年一一月一四日であると供述するのに対し、控訴人本人は同月一六日であると供述し(以下、特に断らない限り、被控訴人、控訴人本人の供述とあるのは、原審及び当審のものを指す。)、いずれとも決し難いが(この点については、後に検討を加える。)、いずれにしろ右医療契約が締結されて数日後であることが認められる。
請求原因3の事実(被控訴人の再妊娠及び四男泰典の分娩)は、被控訴人本人の供述によつて、これを認めることができ、右認定に反する証拠はない。
二請求原因4の事実(控訴人の説明義務とその不実施)について
1 右一の事実に、<証拠>を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。
(一) 控訴人は昭和一九年から滋賀県水口市で産婦人科医を開業し、控訴人医院は個人の開業医としては同市内で最も大きいものであつた。なお、控訴人の妻は、控訴人医院で、外来患者の呼び出し、妊婦の体重計測、検尿、入院患者の給食の手配などを手伝い、昭和四九年ころからは、親しい妊婦には、出産の際の立会い、出産直後の赤ん坊の写真撮影などもしていた。
(二) 被控訴人は、その夫である夏男との間に、昭和四六年一一月一二日に長男一郎を、同四八年一〇月一二日に長女秋子を、同五〇年八月三〇日に次男二郎を、それぞれもうけたが、いずれも控訴人医院で出産したもので、控訴人を信頼しており、また控訴人の妻とも、出産の際の立会い、赤ん坊の写真撮影などを通じて親しくしていた。
被控訴人と夏男は、同五二年被控訴人が三男三郎を身籠つた際、三郎を産んだ後も子供をもうけるかどうかについて相談し、子供が四人になることや夫婦の年齢(当時夏男は三六歳、被控訴人は三〇歳)を考慮してこれ以上は子供をもうけないこととし、避妊の方法について相談した結果、被控訴人が避妊リングを挿入する方法では再妊娠の可能性があるため、手術をすれば完全に避妊できるとして被控訴人が本件手術を受けることにまとまつた。
(三) 被控訴人は、三男三郎について、昭和五二年七月か八月ころを最初に控訴人医院で数回妊婦検診を受け、同年一一月控訴人医院に入院し、同月一二日三郎を出産し、その数日後(同月一四日か一六日)本件手術を受け、同月二七日に三郎と共に退院し、翌五三年一月まで控訴人医院に通院した。
(四) 控訴人は、被控訴人に局部麻酔をしたうえ腹部を切開して本件手術を実施したが、不妊手術については本人及び配偶者の同意書及び手術承諾書を徴するのが通例であるにもかかわらず、本件手術の際は右同意書等を徴することはしなかつた。
控訴人の実施した本件手術は、卵管中央部をつまんで屈曲させて卵管係蹄を作り、これを圧挫鉗子で圧挫し、圧挫部分を絹糸で結紮して卵管腔を閉鎖し、精虫が卵管を通過することを妨げて妊娠を防ぐ方法である。しかし、現在のところ女性のする避妊方法として一〇〇パーセント完全なものはなく、本件手術によつても、その後妊娠することが絶無であるとはいえず、手術後の妊娠の可能性は約一ないし二パーセント存し、しかも分娩直後の手術では、平常時の卵管は箸の先位の太さなのに分娩直後には薬指ないし小指大に弛張するため、結紮が不十分になる可能性があつて、卵管が疎通性を回復して妊娠する可能性は約五ないし六パーセントと高くなる。
なお、控訴人医院での卵管結紮手術の実施状況は数年に一度位であり、手術後再妊娠した例はなかつた。
(五) 本件手術後、被控訴人は夏男と夫婦生活を継続していたが、昭和五四年になつて、食欲がなく、むかつくなどの身体の変調を覚えたため、同年四月甲賀郡水口町所在の甲賀病院に赴き、症状を説明したところ産婦人科に行くよう指示され、同病院産婦人科で診療を受けた結果妊娠していると診断され、同病院で一二月二日四男四郎を分娩した。また、被控訴人は昭和五八、九年ころ再び妊娠したが、この時は中絶するに至つた。
2 ところで、医療契約に基づく医師の患者に対する説明義務の内容は、当該医療行為の種別・内容や、その必要性及びこれに伴う危険性の程度、緊急性の有無等によつて異なるものであり、これらを総合勘案して説明義務の有無及びその程度を決定すべきものと解されるが、本件のような卵管結紮手術の場合は、これを実施しなければ患者の健康上支障を生ずるという性質のものではなく、ただ患者及びその家族の生活設計のため、避妊という目的を達成するのに必要な限度で行われるものであるから、患者が本件手術を希望した場合には、専門家である医師としては、患者に対し、現在のところ一〇〇パーセント完全な避妊方法はないこと、本件手術のほかにも避妊方法はありうること及び本件手術と他の避妊方法との利害得失等を充分説明し、患者がこれらを考慮したうえ、なお本件手術の実施を求めるか否かを決定できるようにする義務が存すると解するのが相当である。特に、本件のように分娩後間がない時期に本件手術を実施するときは、手術後再妊娠する可能性がより高まるのであるから、医師が、本件手術によつてもなお妊娠する可能性があり、しかも分娩直後の手術ではその可能性は更に高まることを充分に説明しないまま本件手術を実施したときは、右義務に違反したものとして、これにより患者が被つた損害を賠償する義務があるというべきである。
3 そこで控訴人が右説明を尽くしたか否かについて検討するのに、被控訴人本人は右説明は何らなされなかつたと供述するのに対し、花江証人、控訴人本人は、控訴人が右説明を尽くしたと供述するので、以下その信用性について検討する。
(一) 前記1の認定事実によれば、被控訴人は、本件手術前、既に三子をもうけ、更に第四子を妊娠していたため、これ以上子供をもうける気持はなく、本件手術を受けることによつて完全に避妊できることを強く希望していたことは明らかである。しかるに本件手術によつても例外的には再妊娠することがあり、特に分娩直後に本件手術をするときは、それ以外の時期に手術をするのと比べ、再妊娠の可能性はより高まるのであるから、被控訴人が控訴人からこのことを聞知していたとすれば、身体への侵襲を伴う本件手術を、しかも分娩直後に受けるには、緊急の必要があるなど特段の事情があるのが通常と考えられる。
この点に関し、控訴人は、「被控訴人が、昭和五二年七、八月ころ三男三郎の妊婦検診の際、本件手術の実施を申し出たが、一旦は避妊を希望してもまた子供を欲しがる例があつたことから、先ず子宮内に避妊リングを挿入する方法(この方法は特に手術を要せず、リングをはずすことによつて直ぐに妊娠が可能となる。)を勧めた。しかし、被控訴人が身体に合わないと断り、子供が多いので再入院は簡単にできないとして分娩直後の本件手術の実施を強く希望したため、本件手術によつても再妊娠することはあり、しかも分娩直後は再妊娠の可能性が高くなることを、その理由も含めて説明し、分娩後二、三か月後に手術をするよう勧め、夫とよく相談するよう話した。その後三度位同様の説明をしたが、被控訴人から夫との相談結果について確たる話もなく推移していたところ、被控訴人が三男を分娩して二、三日後に、控訴人の妻を介してなお本件手術の実施を希望したので、『この前言つたとおりやけれども、あんたがそういうんやつたら仕様がないな。』と話して、この時には改めて詳しく説明することなく、本件手術を実施した。」と供述する。
しかし、控訴人の右供述によれば、被控訴人が避妊リングによる避妊方法をとらずに本件手術を選択したのは、「リングが身体にあわない。」との理由からであり、分娩直後に本件手術を受けることを選択したのも、「子供が多いので再入院が容易でない。」というものであるところ、控訴人の供述によつても、理論的には、避妊リングが身体に合わないということはなく、単に精神的なものにすぎないし、再妊娠する可能性は、避妊リングによる場合と分娩直後でない卵管結紮手術の場合とでは余り変わらないというのであるし、「再入院が容易でない。」という理由も、被控訴人が経済的に困窮していたなどの事情が窺えない本件においては(花江証人、控訴人本人は、被控訴人が経済的に困つていたから、かかる申し出をしたと思うと供述するが、いずれも単なる推測にすぎない。)、完全な避妊を強く望んでいた被控訴人が、本件手術によつても再妊娠の可能性があり、しかも分娩直後の手術ではその可能性が更に高まることを知つたうえで、本件手術を受けることを希望した理由としてはいささか薄弱であるといわざるを得ない。
むしろ、被控訴人の、「控訴人から避妊リングの話を聞いたが、被控訴人の親戚でリングを使用したのに子宮外妊娠をした人があるので、当初からリングをする気はなく、本件手術を希望したのに対し、控訴人から再妊娠の話はなく、不安はあつたものの、控訴人の妻から大丈夫との激励があり、控訴人もうなずいていたことから、本件手術を受けることにした。」との供述の方が素直で自然であるとみれること(特に、被控訴人が控訴人の妻から聞いたとして供述する控訴人の妻の激励の内容は、被控訴人に、再妊娠の可能性がなく安心して夫婦生活ができることを信じさせるに足る具体的かつ真実性のあるもので、これが虚構であるとも思えない。)、被控訴人の夫である夏男証人は、本件手術の前後に控訴人と顔を合わせたことがあるが、控訴人から手術をしても妊娠の可能性があることは聞いていないと供述しているところ、控訴人が、被控訴人に対して夫と相談するよう話していたとすれば、夏男に対し、本件手術による妊娠の可能性について話をしないのは不自然であること、また、控訴人は、被控訴人に説明した回数についても、前記のとおり「三度位」と供述するほか、「最初の妊婦検診時以外は記憶がない。」とか、「もう一度位説明した。」、「妊婦検診のときにも、再妊娠の可能性について簡単に話した。」と供述するなど、あいまいな点があることなどからすると、控訴人から本件手術による妊娠の可能性について説明がなかつたとの被控訴人本人の供述の方が、これと反対の、花江証人、控訴人本人の各供述に比し、信用できるというべきである。
(二) 控訴人は、本件手術後も再妊娠の可能性があり、分娩直後の手術ではその可能性がより高まることは産婦人科医の常識であり、控訴人がその説明を怠ることはあり得ないと主張するが、これらのことが産婦人科医に広く知れわたつているからといつて、事実として控訴人が説明をしたことにはならないし、被控訴人が再妊娠の可能性がより高まる分娩直後の時期に本件手術を受けたことに対する前記疑問を払拭させるに足りるものではないから、右主張は採用できない。
(三) また、被控訴人本人が、「四回程の妊婦検診の都度控訴人から本件手術で完全に避妊できると確認した。」旨供述したとして、前記の医学上の常識から、控訴人が複数回にわたつて虚偽の説明をすることはありえないと控訴人は主張するが、被控訴人の供述は、「被控訴人が四回程の妊婦検診の都度確認したのに対し、主として控訴人の妻が大丈夫である旨を発言し、控訴人はうなずいていた。」というものであり、控訴人が卵管結紮手術をした過去の事例では再妊娠した例がなかつたため、かかる応答をしたとも考えられるから、被控訴人の供述が直ちに信用できないものとすることはできない。
(四) 本件手術の実施日について、被控訴人は昭和五二年一一月一四日であると供述し、控訴人は同月一六日であると供述するが、<証拠>によれば、本件手術についてはカルテが保存されていないのであり、本件手術日はいずれとも決し難く、被控訴人の供述が誤りとすることもできないし、仮に控訴人のいうとおりであつたとしても、いずれにしろ、本件手術が分娩直後の手術であることに変わりがなく、そのことと控訴人の説明の有無とは直接に結び付くものではない。
次に、本件手術実施の決定時期については、被控訴人の供述は、これを全体としてみれば、「被控訴人が三男三郎を出産するまでは控訴人からの明確な言質はなく、同男を出産して後に、実施が決まつた。」と供述していることを看取することができるから、被控訴人の供述が信用できないとすることもできない。
(五) さらに、控訴人は被控訴人が再妊娠を知るに至つた経過(甲賀病院での受診目的)など、再妊娠後の被控訴人らの行動にも不自然な点があると主張するが、被控訴人本人の供述によれば、「被控訴人は、昭和五四年に至り食欲がなく、むかつきを覚えたが、再妊娠することはないと信じていたため、癌などの病気ではないかと思い、甲賀病院で受診したところ、産婦人科にまわされ、妊娠していることを告げられたのに対し、再妊娠することがあるのかと反問し、控訴人から再妊娠のことは聞いていないと述べた。」というのであり、夏男証人も、「被控訴人の変調から妊娠したのではないかと思つたが、まさかそんなことはないと二人で話していた。」と供述しており、両者の供述を総合すると、被控訴人の前記症状は妊娠の症状と似ているが、被控訴人は、本件手術を受けていたことから再妊娠することはないと信じ、癌など他の病気を疑つて、甲賀病院を訪れたと認められるから、格別矛盾があるとすることもできない。
もつとも、<証拠>には、右認定に反する記載があるが、同号証はそれ自体伝聞にすぎないうえ、同医師が被控訴人の腹部にある本件手術跡を見ていながら、再妊娠の有無について被控訴人と話をしたことはないとするなど、不自然な点もあり、右判断を覆すに足りない。
また、再妊娠が判明した後、被控訴人が控訴人医師に赴いたのが遅れたことも、控訴人から再妊娠の可能性を告げられていなかつたため、同医院を訪れるのをためらつたとみることもできるし、その際に控訴人が被控訴人に対し適切に対応しなかつたことから被控訴人が控訴人に不信の念を抱き、控訴人からの、本件手術費用を返還し四男四郎の出産費用も無償とするとの申し出を受けたにもかかわらず、これを拒絶し(この事実は、花江証人の証言、被控訴人の供述、原審における控訴人の供述によつて認める。)、控訴人医院ではなく、甲賀病院で四男四郎を出産したとも考えられる。
(六) なお、<証拠>によれば、被控訴人の夫から控訴人に対する損害賠償請求書、被控訴人代理人から控訴人に対する通知書には、控訴人から再妊娠の可能性について説明を受けていない旨の記載はなかつたことが認められるが、右損害賠償請求書では避妊手術の失敗により新生児が生まれた諸費用も請求していることからすると、被控訴人ないしその夫は本件手術により再妊娠することはあり得ないと考えていたことが窺われるといえるのみならず、右各書面は、本件手術をしたにもかかわらず、妊娠の結果が発生したことに対する損害賠償請求ないしは解決方法についての控訴人の回答を求めることを目的としたものであるから、右各書面が控訴人から事前に本件手術後の再妊娠の可能性について説明があつたことを窺わせるものであるとは到底言えない。
そして、<証拠>によれば、右各書面に対する控訴人の返書(当審における控訴人本人の供述によれば、右各返書は控訴人が控訴人代理人中坊公平の指示に基づいて自ら作成したものであることが認められる。)には、本件手術を実施するにあたり、被控訴人に再妊娠の可能性について充分説明した旨の記載があるのであつて、右返書の記載からしても、被控訴人と控訴人との間で控訴人から再妊娠の可能性について説明があつたか否かについて紛争があつたと推認できるのであり(控訴人は、手術がミスと非難された以上、返書では必然的に再妊娠のことは説明したと応答することになると主張するが、このことは、逆に、被控訴人の立場からいえば、手術をミスであると主張する以上、再妊娠の可能性について事前に説明がなかつたことを主張しているともいえる。)、「被控訴人が昭和五四年六月、妊娠したと言つて控訴人医院を訪れた際、控訴人に対し、再妊娠の可能性について説明がなかつたとの抗議の発言はなかつたし、その後訪れた際にも主として手術による傷の話に終始していた。控訴人の夫が抗議に来た際も、手術前に再妊娠の可能性について説明を受けなかつたとの発言はなかつた。」旨の控訴人の供述ひいてはこれと同旨の花江証人の証言は、にわかに信用できないものである。
(七) 以上要するに、「本件手術実施に際し、控訴人から再妊娠の可能性について説明はなかつた。」旨の被控訴人の供述は信用することができるのであつて、当裁判所も右のとおり認定する。控訴人の供述及び花江証人の証言等によつても右の認定を覆すことはできない。
控訴人が当審においてるる主張するところは、ひつきよう、控訴人の供述、花江証人の証言が信用できるものであることを前提として、右の認定を非難するに帰するものであつて、採用することができない。
4 以上に認定した事実によれば、控訴人は被控訴人に対し、本件手術に際し必要な事前の説明義務を怠つたものというべきであるから、これにより被控訴人が被つた損害を賠償する義務がある。
三しかして、被控訴人が本件手術により控訴人医院に昭和五二年一一月二六日まで入院し、以後も休日・正月を除き四〇日程治療のため通院したことは当事者間に争いがなく、右の事実に、本件手術自体身体への侵襲を伴うこと、前記二1のとおり被控訴人は完全な避妊を希望していたにもかかわらず、本件手術後再妊娠し、四男四郎を出産することになつたこと、その後も、再び妊娠し、中絶のやむなきに至つたこと、その他本件にあらわれた諸般の事情を考慮すると、被控訴人が被つた精神的苦痛に対する慰謝料としては、金一〇〇万円が相当である。
そして被控訴人が控訴人に対し、遅くとも昭和五五年一〇月一八日に被控訴人の被つた損害を請求したことは当事者間に争いがない。
四以上のとおりであるから、被控訴人の本訴請求中、控訴人に対し損害賠償金一〇〇万円及びこれに対する履行を請求した日の翌日である昭和五五年一〇月一九日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める被控訴人の請求を認容した原判決は相当である。
よつて、民訴法三八四条により本件控訴を棄却することとし、控訴費用の負担につき同法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官栗山 忍 裁判官惣脇春雄 裁判官山口幸雄)